rememberのゆめにっき

文筆の訓練のようなもの

ウツボ

【七月七日】

 整体の学校まで自転車で行く。

 俺は青のリュックサックを背負っていた。その中には白衣とジャージとタオル、学校の教科書、財布、スマートフォン、自転車の鍵などが入っていた。

 リュックサックは、肩に掛ける部分の長さがベルトで調節できるタイプのものだった。さらにその左右の肩に掛ける部分は、それに付随しているストラップで胸や腰の部分で連結させることができ、その状態でベルトを締めればリュック全体が背中に押し付けられ、かなりの安定性を保つことができる。これはもともと登山とか、そういうアウトドア用に作られたものらしい。

 だからリュック全体には長さ調節用のベルトが結構あって、そのベルトは折り返しの所から先にひらひらした余分な末端の部分がある。このリュックはどう背負っても、そのひらひらの末端部分が宙に舞ってしまう。

 

 俺は梨畑に挟まれた、軽トラック以外は何も通っていなさそうなコンクリートの道を自転車で走行していた。夏の太陽は剥きだしのまま空に存在していた。暑かった。

 登り坂に入った。俺はフロントの車輪のギアを一段落とした。座ったままだと少し辛かったので、立ちこぎにした。汗が出た。

 登り坂を登り切って、梨畑は終点を迎えた。しばらくまっすぐ走行した後、今度は下り坂に入った。

 両足でペダルを漕ぐのを止め、坂の傾斜が作るスピードで道を下っているとき、俺のすぐ背後でキュルルルという音が聞こえた。摩擦音だ。

 

 

 

 ここはいつか通っていた道。何度も繰り返し通った道。まだ十回ほどの夏しか経験していなかった頃、仲間と遊びながら家に帰った道。そこを俺は歩いている。

 女、がいる。黒いセミロングのありふれた髪型をしていて、白い服を着ている。年齢は俺と同じぐらい? もっと幼いようにも見え、少女と言ってもいいのかもしれない。

 女性は俺と一緒に歩いている。どこに向かっているのかは全く分からない。女性は俺の真横にいたり、少し前方に行って俺を導くように歩いていたりもした。

 泉? 池? 水がある場所にたどり着いた。視界の前方にその水場があり、左側には桟橋があった。そのさらに左側には名付けようもないような雑草が水場から生い茂っていた。右の方を向くと砂浜、防波堤、民家、コンクリートの道路などが見えた。

 あの桟橋はどうなっているのだろう。桟橋の途中からが水の中に水没してしまっているのだ。ということはあの桟橋は水場の方に傾いているのだろうか。それとも水場の方が桟橋の方に傾いているのだろうか。

 女性が桟橋の上を歩いていく。当然水の中にじゃぶじゃぶと侵入していった。俺は後を追ったのだが、桟橋の手前で逡巡して立ち止まった。水の中に入るのは抵抗があったのだ。女性はどんどん前進して、水没していった…のだが、ずいぶんこの水場は浅いらしく、女性は膝の部分までしか水に浸かっていなかった。

 俺と女性の間は二十メートルほどの距離がある。女性は水の中で立ち止まっているのだが、女性のその先は急にそこで世界が途切れているかのように真っ白い空間になっていた。そこから先に進めば、永久に落下し続けてしまうように思った。水はそこで滝のように落下しているのだろうか。昔の人間はこの世界は球体ではなく平面であり、世界には最果てがあると考えていたらしい。そのようなことを俺は思い出した。

 世界の最果てのような場所で女性は俺の方を振り向いて、主に両腕を使って何かのジェスチャーをしている。俺に何かを説明しているようなのだが、それが何なのかはさっぱりわからない。

 水場は広い。俺から見て左側は草が生い茂っているだけだったが、右側の方はまだ水場が続いていて、しかもずいぶんと深さもあるようだった。

 そして、その深い部分を見て、俺は驚愕した。

「な……何だあれは……」

 最初、それは何しろ全長二十メートルくらいの長さだったから、黒い潜水艦だと思った。少し全体が動いているように見えるのも、水面に波が発生してそれでそのように見えたのだと思った。しかし違った。それそのものが幽かに動いているのだ。つまり、あれは、いきもの。

 ウツボ。俺はそう思った。昔やったテレビゲームであのような化け物を見たことがある。大きさもそのゲームの中にいたウツボと同じくらいじゃないだろうか。などと冷静に分析している場合ではない。なんだあの禍々しいフォルムは。「獰猛」という言葉を具現化したような顔つきで、その顔には一目で肉食性と分かる牙が存在していた。というかあの大きさならば肉食だろうが草食だろうが関係がない。俺は恐怖を覚えた。人から嫌われるのが怖いとか、人前でスピーチするのが怖いとか、そんな文化的社会的なものではない。生命としての根源的な恐怖だった。俺は反射的にあとずさりしていた。心臓がありえない速さで脈打っていた。

 そのウツボの横に、ウツボと同じくらいの大きさの黒い影がどこからともなく現れた。今度は一体何なのだ。目を凝らして見ると、それはずんぐりむっくりとした両生類のような生命体で、俺はオオサンショウウオに見えた。あるいは巨大なオタマジャクシと言ったところか。俺はその生命体からは攻撃性とか野獣性は感じなかった。

 とにかくあの両生類のような生き物はともかく、あのウツボは危険すぎる。逃げなければ。あの女性に知らせなければ。

 女性はまだ世界の最果てに立っていた。何をやっているのだ。あのウツボが見えないのか。早く逃げろ。喰われてしまうぞ。おい……俺は女性のことをなんて呼んだらいいのかわからない。あの女性の名前を知らない。仮に知っていたとしても、俺はその名前で呼ぶことができるのだろうか?

 女性は桟橋の方へ走り出した。俺もウツボから離れるように踵を返して走り出した。その時、ウツボが獲物をしとめるように、砂浜に向かって勢いよく突進した。世界全体にもの凄い振動が起こった。水中から出たことでウツボの体表が露わになった。黒い皮膚は粘膜でぬめぬめしていて、グロテスクだった。

 女性は消失していた。方向からしてウツボの餌食になったわけではないことはわかっていたが、それでも俺はウツボによって女性の存在がかき消されたのだと直覚した。女性はあのウツボの下敷きになったのだと思った。

 

 

 

 下り坂の途中で自転車を止めた。後輪を確認するとリュックのベルトがそこに絡みついていた。結構強く引っ張っても取れなかったが、左右に振ると簡単にとれた。ベルトの後輪に絡みついた部分は、摩擦熱でライターであぶったかのように溶けていた。頻繁にからみつくのだ。鬱陶しい。

 

 下り坂が終わった後再びペダルを漕ぐと、妙にペダルが軽く感じた。さっきギアを落としたのをそのままにしてあったのだ。俺はギアを元の状態に戻し、学校に向かった。