rememberのゆめにっき

現実のことも書くが

シャドウに殺人依頼

f:id:remember-7:20170801224841j:plain

 たった一枚の毛布に全身をくるんで胎児に様に丸まっている。その毛布をはぎ取ってしまえば一人の社会不適合者が現れる。彼は苛立っていた。後でわかったことではあるが、その苛立ちの原因と彼が何かから逃げるかのように毛布をまとっていたことは、少しの関係性があった。

 彼は自分が一体何に対して苛立っているのかを思索した。まず彼が思ったのは、何か必ず理由があるに違いない、自分を苛立たせる何かが、今自分の周囲で勃発しているに違いない、ということだった。

 彼は心理学……心理学と言っても様々な分野があるが、彼はとりわけ深層心理学、及び精神分析と呼ばれる分野に興味をもって、それ関連の書物を読んだりインターネットを閲覧するなどして知識を得ていた。それは、ややもすれば迷子になってしまう危険性を持った「独学」という行為だったが、彼はその危険性を良く自覚していた。俺が独学で得た知識なんて何の説得力も持たないだろう。大学で心理学を専攻した人たちからすれば、中途半端に知識をかじった素人にしか映らないのだろう。彼らが読み倒した書物の数や勉強に費やした時間は、俺とは比べ物にならないほど膨大なものだ、と彼は思った。人間の心の在り方が少し分かったからといって、調子に乗ってはいけない。その程度の知識を披露することは、お前以下の人間には通用するかもしれない。いや違う、お前はお前以下の人間を視認したとき、お前はその付け焼刃のテクニカルタームを披露するのだ。一時のささやかな優越感を得たいがために。彼は内省した。一旦内省をし始めるとなかなかそれが終わらず、彼自身そういった性格に悩んでいた。とにかく調子に乗ってはいけないと、彼はそう自戒した。

 しかしながら独学とはいえ心理学の本を読み漁ったことは、何か人間の在り方の普遍的法則のようなものを彼に指し示した。それは彼にとってひとつの収穫だった。その普遍的法則とは前述したとおりの、それが何故そうなったのかは必ず理由がある、という原因追究の思考だった。俺は何故眉間にしわを寄せ、身体を屈曲させ、頭を抱え込んでいるのか。何故毛布一枚を隔てた向こう側の世界を憎むことしかできないのか。好きでそうなったのか? ちがう! 俺がこうなったのはそれなりの理由ってものがあるはずなんだ。でもそれが自分で分からない。でもそれをつかむ必要があるんだ……きっと今。

 彼はベッドに横向きに寝たまま、自分の分身を出現させようと試みた。黒いガスのようなものが彼の体の周囲から濛々と発生し、それは毛布とベッドの間のわずかな隙間から、ボールの中の空気が抜けていくようににゆっくりと外に流れ、部屋の床にサークル上に沈殿した。その黒い気体は、氷柱が溶けていく映像を逆再生したかのように、人型を成していった。つかみどころがないあやふやだった気体は、今ははっきりとこの世界に己の存在を主張する個体となっていた。それは無機質な黒い物体で、いわば彼の影法師だった。

 影法師はベッドの上で毛布にくるまっている社会不適合者を観察し、瞬時に彼の苦しみの原因を見抜き、それとなく彼に耳打ちした。

 

 

 始めに虫の鳴き声を知覚した。それは二種類以上の虫が同時に鳴いていたのだが、彼は昆虫に明るくなかったし特別な興味もなかったので、セミが鳴いているな、としか思えなかった。彼は生命体のメカニズムを知ることに喜びを得るような知的好奇心は持ち合わせていなかったので、この虫の鳴き声の正体を明らかにしようとは思わなかった。しかし人間の心理という、およそ科学には程遠い現象には興味があったので、今自分が感じている不快感の正体を解明したいと思った。彼は自問した。俺の苛立ちはこの虫の鳴き声に起因しているのだろうか。否、と割合瞬時に自答した。何故ならば極めて自然だから、それは存在することに何らの疑問を持ちえない、という意味での自然だが、鬱蒼とした夏の森の中で虫が鳴いているのは、夜が明けたら太陽が昇ってくるのと同種の自然性を持っているからだ。その自然の成り行きに苛立ちを覚える人間がどこにいようか。いや、いるはずはない、と彼は思った。いや、とまた彼は思った。確かにうるさいにはうるさいのだ。しかしそのうるささで感じる不快感は、今俺が感じている不快感とは別種のもののようであると彼は思った。

虫の鳴き声で、俺は苛立っているわけではない。

 次に彼の耳が捉えたのはけたたましく響く子供らの声と、それに付随して発生している家の廊下を踏み鳴らす音だった。今帰省している姉夫妻の子供らであった。子供は二人、一人は女、一人は男。ただただ廊下を走り回ることの一体何が楽しいのか、ひょっとしたらこの子供らの喧騒が苛立ちの原因なのだろうか。またしても否。何故ならこの子供らもまた自然性を持った存在だからだ。普段の住まいとは別の空間に居ることが二人の気分を高揚させているのだろう。その子供らの年齢と同じ時分、きっと俺もそうであったはずだし、そういう感情の変化は先ほどの虫の鳴き声と同様にごく自然なもののように思えた。俺はこの子供らに対して苛立っているわけではない。

 次に飛行機が飛んでゆく音が聴こえた。その飛行機を彼が実際視認したわけではないが、それ以外には考えられないだろう、その音は彼の部屋の天井のはるか向こう側から、この家がある集落一帯、いやおそらくそれ以上の範囲に鳴り響いていたが、まさかSFみたいな巨大生物が飛来しているわけでもあるまいし……と、彼は別にそんな現実逃避的な空想をしたわけではなく、ただただ、ああ飛行機が飛んでいるなあ、と思った。彼はその飛行機の音から、漠とした世紀末的ニュアンスを感じ取った。ああ、きっと俺はこの飛行機の音で憂鬱な気分……そうだ、この気持ちは苛立ちだけじゃない、多分にメランコリック成分が混じっている。複雑な感情だ。見た瞬間にその色を識別できるような単色のものじゃない。水色のカーテンは水色で、卵焼きは黄色だって思えるような簡単なことじゃない。それがどれほどの数なのか分からないが、複数の色が混ざり合って、でも完全に混ざり合っているわけじゃなくてマーブル調になっている。それをはっきりと「○○色」と言えないように、俺は、自分の感情がわからない!

 決して美しいものではない、その何色だか分からないものは。吐瀉物のようなものだよ。誰もが忌み嫌うものだ。あの上空に飛来している人工物が放つ音が俺の感情を攪拌して感情の複合体を作っているのか。そうなのだとしたらどっかに墜落でもしねえかな……腐った思考に片足を突っ込みかけたが、瞬時にどうやら違うらしいと結論が出て、正気を取り戻した。あれも自然だ。あれを形作っている物質は自然のものではないだろうが、その自然ではないものが空を飛行しているのは、あの空に雲が浮かんでいるのと同じくらい自然だ。何故ならあれは空を飛ぶことを目的として作られたからだ。もっと言えば空を飛んで人を運ぶことなのだが。あの飛行機に乗っている人達は何の目的があるのだろう、どこからどこへ行くのだろう。彼は一瞬そのような思索にふけようとしたが、自分の不快感の正体がそれではないと分かるとどうでもよくなって、やめた。

 なかなか結論が出ないまま時間だけが過ぎた。飛行機はどこかへ行ってしまって、空を覆っていた音は彼の耳からフェードアウトしていき、やがて消失した。

 

 

 飛行機が消え去った後も彼の耳は色々な音を拾った。例えば、彼の母親が姉の子供らに食事を提供するため、何かしらの食物を切断しようと包丁をまな板に打ち付けた時に発生するリズミカルな音。例えば、夏休みの宿題である算術の問題を解こうとするも、思考がまだ発達していない為正解がわからず没論理的な勘に頼った当てずっぽうな解を必要以上の元気さで回答する子供らを叱責する、その子供らの父親、異なる言い方をすれば姉の夫の野太い声。例えば、その二匹にとっては姉の家族ら四人は自分たちの生活環境を脅かす存在にしか映らないのだろう、突然の来訪者により半ば狂乱状態になり家中の廊下を走り回り、私たちを救ってくださいと哀願するかの如く鳴き声を発する、普段はめったに鳴かない二匹の猫の声。そのいずれかの音を知覚すれば彼はすぐさまこれが私を苛立たせているのかしらと自問自答したのだが、否、否、否。どれも今彼の心に在るぬらつきの正体ではなかった。

 

 

 最後に彼の耳が捉えたのは人間の声であった。しかしそれは人間であると言えば人間だが、人間でないといえば人間ではなかった。その声の質から男性であることが分かったが、その男性は平面の存在で私たちがいる空間に一方的に話しかけていた。また彼は突然消失したかと思うとこれまた突然私たちの眼前に現れたり、しかもその消失の前後で彼の大きさが変わっていたりした。消失している間も彼の一方的な話は続いていて、その話はフレンドシップとは無縁の、どちらかと言えば定められたものを朗読しているような堅苦しさがあった。毛布にくるまっている方の彼、社会不適合者の彼は、その音の発生源から距離があるため輪郭が曖昧になっている平面人間の声を聴いて、ああ、これは今日の現在の時間以降の、辺り一帯の空模様の変化を予報し人々に警告を与えているのだなと思った。また、それらの情報を必要とし、それを聴いている人間がいるのだな、と思った。その時であった。

 彼の頭の中に、直観が走った。

 「直観」というある種超越的な人間の能力にはよく「鋭い」という修飾がなされるが、彼のそれが鋭いのかあるいは鈍いのかは分からない。ただ答えをつかんだことは確かだった。何故なら直観というのは、思索や推論をすっとばして直接的に答えをつかんでしまう能力だからだ。彼は今やっと、ぬらつきの正体を鷲掴んだ。

 「音」なんかじゃなかった。音が彼を不快にさせているのではなかった。その音を聴いている「人間」がいて、その人間の存在こそが、彼の心にぬらつきを生じさせていたのだった。

 

 

 彼は布団をはねのけがばと起き上がった。そこに影法師はまだいた。寺や神社に祀られている、それを見たすべての者を威圧する銅像のように、そこに屹立していた。感情が読み取れるような表情は何もなかった。彼はその影法師に命令した。

 一階にいるあいつを殺してきてくれないか。やり方は任せるよ。なんかそういうの得意そうに見えるし。凶器は持っているんだろ? 今は隠しているだけで。あいつの名前? ……さあ、知らない……おっとそれは嘘だ。あんたに嘘をついてもしょうがないな。本当は知ってる。もちろん知ってるよ。だけど言いたくない。絶対にね。……何でかって? ……それは知らない。理由なんて知らない。理由なんて別にない。

 知らないって言ってるだろ。いいからお前はあいつを殺してくればいいんだ。早く行けって!

 

 

 

 影法師は何も言わない。