rememberのゆめにっき

文筆の訓練のようなもの

3個で1パックのプリンを分離せよ

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 あくる日、このブログ界隈を彷徨しているうち一つの記事が目に留まった。その記事を概括すると、「子供の夏休みの宿題である算数の問題がTVで取り上げられていたのだが、その問題分にややこしい部分があり納得がいかない」というものであった。

 その問題文というのは、以下のようなものになる。

 

『3個で1パックになったプリンがあり、その代金は240円である。このプリンを20個購入するとした場合、支払いの金額はいくらになるか求めよ』

 

 一つのまとまりとしての金額は明らかになってはいるものの、単体としての金額は明らかになっていない。20個購入した場合の金額を求めるには、まずその単体の金額を明らかにしなければならない、といったからくりの問題のように思える。

 

 しかし、その記事の筆者は以下のように思ったようだった。

 

「3個で1パックになっているものを20個買うことは許されない。何故ならば、20個買うには1つのパックから1個のプリンを分離させなければならない。しかし、そんな行為を許す店がどこに存在するのだろうか。ありえない事例を取り上げているこの問題文は不条理と言わざるを得ない。ものすごいむかつく」

 

 けだしもっともな主張である。筋が通っている。

 しかし、私はこの意見に対しこうも思った。

 これは、「先入観」「常識」といったものにとらわれている考えではないだろうか。

 先ほどの筆者の主張の中で、その「先入観」や「常識」に当てはまるのは、『そんな行為を許す店がどこに存在するのだろうか』という部分である。一見何も間違いのない意見のように思える。1パックになっているものはその1つのまとまりで商品として売られているわけであって、それを分離させてしまうとそれはもう商品でなくなってしまう。ということはその店の売り上げが落ちるということである。利潤を追求するのが商売だ。何をするにも金は要る。ボランティアでプリンを売っているわけではないのだ。そのような蛮行を許す店があるはずがない。

 しかしそう考えてしまうことがもう先入観・常識にとらわれてしまっている状態だといえよう。自分の人生の中で来訪できる場所などたかが知れているものだ。もしかしたら、前述の常識的価値観にとらわれない店が世の中にあるかもしれない。例えば、店主が大洋のように広い心と強い感受性の持ち主であった場合、1パックのプリンをブチブチと引きはがす子供を見かけたとしても、

「おやおやおやどうしたのかな、あまり穏やかじゃないね。剣呑だね。一体どんな理由があってそんなことをしているのかな。なに? 夏休みの宿題? なるほど、紙上での計算というのは所詮机上の空論、実際に実物を手に取って実験をしてこそ真の理解がある、という考えなわけだね。何と聡明で行動力がある子供なんだろう。まだこんな子が日本にいたなんて信じられない。君からはとても明るい未来を感じる。おじさんは感動してるよ。涙が止まらない。君の行動によってお店の売り上げは減ったけど、その金額でこの感動を買ったと思えば安い物だ……」

ということにならないとも限らない。もしこのような店があれば、元の問題文にはなにもおかしなことにはならない。

 あるいはこのような例もある。例えば親から受け継いだ資産があり、そう利益がなくても経済に何も問題がない、という人間が店主の場合、

「え? 子供が何かプリンのパックをバラバラにしてる? なんでそんなことすんの? 売り物になんないじゃん。ダメじゃん。あーでもいちいち叱るのもめんどくせーなー。親が何か言ってきそうだし。それにあのプリンって150円くらいでしょ。費用対効果っていうの? その子供を叱るっていうめんどくささまで冒して守るもんでもないよね、っていうのが僕の結論かな。資産は200億くらいあるし。だからまあ好きにさせとけばいいんじゃない? そういうことがしたい年ごろなんでしょ。あ、そのプリン俺の冷蔵庫に入れといて。後でヨシ子と食うわ」

ということになる可能性も、完全にないとは言えない。このような店の場合も、元の問題文には何の不具合もないのである。

 

 常識というものはいわば「型」であり、人々が皆一様にその型を身につけることは共通の見解や作法を持つということであって、これにより社会の様々な場面の出来事がスムーズに進行する。これがなければ社会は成り立たず、なので極めて重要な概念と言える。しかしそれを身につけることは、型にはまりきった見方しかできない、柔軟な発想ができない、イレギュラーバウンドに対応できない、その型にはまらない言動をしている者を理解できず癇癪を起こす、という事態を招きかねないのである。

 ブログというものの多くは日常の何気ない出来事を拾い上げ文章化したものであるが、その視点に、その人独自のもの、というものがなければ、読者を満足させるような良質な文章は綴れないように思う。そのためには型にとらわれることのない柔軟な目、心が必要不可欠だ。あそこの地面に落ちているイガグリはもしかしたらウニの死骸かもしれない。観葉植物の水やりの代わりにレッドブルを注いだらもの凄く成長するかもしれない。最近自分のマンション内で殺人事件があったが、その犯人はひょっとしたら俺かも知れない……それらが起こりうる可能性は決してゼロとは言えないのだ。どんな些細なことも常識を捨てた目線で観察し、良質な文章を綴って、クオリティオブライフ、つまり生活の質を高めていくべく、精進しようと思った。

 

 

 

 ヨシ子はその時、スピリチュアルカウンセリングを受けるべく北東の方に向かっていた。