rememberのゆめにっき

現実のことも書くが

部屋を抽象的に模様替え

 境弌は有り体に言えば、具体性のあるものが嫌いだった。具体性のあるものとは具体的なもののことであり、それは例えばスタッドレスタイヤ、草刈り機、突っ張り棒、傾いたテーブルの脚に噛ませた厚紙、蛍光灯、トイレ掃除用のバケツ、滑り止め付き軍手、キンチョールなど。これらは全て目的や用途がはっきりしていて、実学的というか、存在理由がはっきりしている。その曖昧さと汎用性の無さに境弌は辟易するのだった。意味があればあるほど境弌は厭悪した。例えば滑り止め付き軍手を手にはめてしまったら、その滑り止めの特性を最大限に使った作業をしなければならない。そうなってしまうと、俺は俺でなくなってしまう。どういうことかというと、境弌は、自分はミュージシャンにも画家にも作家にもなれる潜在的可能性、半端ないポテンシャルを秘めている、という強烈な自意識を携えていた。そんな俺が軍手をはめてしまったら、なんか段ボールを運んだり、鉄パイプで足場を組まなければならなくなってしまう。それは嫌だ。自由じゃなくなる。俺の潜在性を顕在化させるには自由が必要なのだ。草刈り機を持ってしまったら、俺は草刈人になるしかない。草刈人。草を刈るだけの人。何たるつまらん存在なのだ。俺は草を刈る為に生まれてきたわけじゃないんだぞ。具体性とは、境弌の潜在性、可能性を奪ってしまう、陰険な対象でしかなかった。

 境弌がこのような歪な思考をしているのは、彼の抽象的な思弁の矛先がどこにもないという理由もあった。彼の周りに抽象的思考・会話ができる人は、誰一人とていなかった。皆がしている会話の内容は、具体具体具体、物質物質物質の連続で、概念とか哲学の、ふんわりとして機知に富んだ、悪く言えば地に足がついていない話を交わせる相手は皆無であった。言わば境弌は、知性的な会話に飢えていた。彼の抽象的思弁的、或いはイメージといったものを共有できる友がいたら、このような歪んだ性格にはなっていなかったかもしれない。

 ともあれ、境弌は具体性から距離を置きたかった。だから彼は自分の部屋にある、具体的物質を排除しようと考えた。彼の部屋にはもう無用の、具体の残骸がひとまとまりにして置いてあった。それは振動マッサージ機やドーム型のガラス細工や、イヤフォンやら六角レンチやらであった。それらがどのような経緯で今この部屋にあるのか、境弌は意図的に思い出そうとはしなかった。できれば忘れたかったのである。捨てようとするのは過去を葬りたいという思いもあるのかもしれない。でもその行為を、俺は今まで何度行ってきたのだろう。境弌は何かを捨てるたび、生まれ変われると信じていた。捨てなければ先には進めない。説得力のある言葉じゃないか。その言葉を信じて、境弌はひたすらに、あらゆるものを捨て続けてきたのだ。その所為で彼には思い出が一つもない。

 境弌は寂しかった。

 部屋から具体性を除去したら、部屋の抽象度が上がったりするのだろうか。というか抽象的な部屋って何だろう。特定の場所に留まらなかったり、入るたびに家具の配置や配色が変わったりするのだろうか。「部屋」というのは抽象的な概念だろうか。具象度を上げれば、寝室、リビング、事務所、相談室とかになり、抽象度を上げれば、なんだろう、「空間」だろうか。

 境弌は今いる空間から、具象の残骸を抱え、違う空間に移動した。

 

 境弌の家の庭は砂利が敷いてあり、それは灰色とも黄土色ともつかない、描写の甲斐がない地味な色合いだったが、その日は何故か美しい砂漠のような、ゴールドに近い黄色で光輝いて見えた。それは空の色彩との対比で、一層そう見えているのかもしれない。空の地平線に近い部分は、横一直線に深い藍色に染まっていて、そこから天にかけて徐々にウルトラマリンに変化するグラデーションを描いていた。その空に、朧げに白い三日月が浮かんでいた。地面も、空も、とても鮮やかな色で、綺麗だった。

 境弌はその庭と空と三日月を、今いる空間から眺めていた。外の景色と中の空間との境目には、障子のような形のシルエットが在って、それは逆光によって漆黒に塗りつぶされているように見えた。境弌はその深い黒を見て、今は午前三時くらいだ、と直覚した。

 地平線の暗さを見れば確かにそのくらいの時刻かも知れない。しかし庭が発している明るさからは、むしろ午後の三時くらいの陽気さであった。空は夜で、地は昼。

 不思議な光景だった。たまに快晴の状態で雨が降っていることがあるが、そのような感覚とでもいえばいいのだろうか。静寂で、時が止まっているかのようだった。

 

 境弌はその現実離れした世界に踏み出した。ふと、空に何か小さいものが横切っていくのを、境弌の眼は捉えた。

 それは一瞬で白色だと認識できたので、初めは雲かと思った。しかし雲にしては流れていくのが妙に早く、遠目から見た飛行機のようであり、しかし飛行機にしてはずいぶん低いところを飛んでいるかのように見えた。あれは家の屋根くらいの高さだと思う。それはいわゆる等速直線運動で、どこか自然界の法則を無視しているかのように飛行していた。境弌はそれの正体を確かめるべく、自分の眼を調整し、対象に向けてズームインした(そのような能力を身につけていた)。

 その白い物体は、「#」(シャープ)を5個か6個くらい、ランダムに繋げたような、或いは壊れた格子の一部、みたいな形をしていた。そしてそれは精密なドット画像を拡大して見た時みたいに、輪郭がぼやけていた。

 そしてその芥みたいな白いオブジェクトは、シューティングゲームの弾丸みたいに一定の速度で、境弌の眼の右端から左端まで横切り、やがて消失した。

 

 境弌は視線を元に戻し、前を見た。キラキラと光る砂漠のような庭、藍色に横走る夜のような地平線、天に昇るに従い海色に変化する空、そこにエアブラシで描いたような白い三日月が浮かんでいた。境弌は具体の残骸を捨てるため、庭と空の境目に向かって歩き出した。程なくして境弌もろとも全てが消え去った。